「ああっ」
とあるよく晴れた日。京屋敷の縁側でうとうとしていた望美は、突如響いた素っ頓狂な声によって現世へと引き戻された。
庭先で、誰かがこちらに背中を向けてかがみ込んでいる。柔らかな春の風が、ふうわりと、石鹸の香りを運んできた。――景時だ。洗濯をしている。
「……景時さん?」
「え、あ、望美ちゃん?ごめんね〜。起こしちゃった?」
振り返った景時は、心から申し訳なさそうに泡だらけの両手を合わせた。
「ううん、だいじょうぶです。それより、どうかしたんですか?」
「あ、いやね。見ての通り、今、洗濯をしているんだけれど……譲くんから衣類を預かるのを忘れちゃって。洗濯頼まれていたのに、まいったな〜」
ま、仕方ないかと、諦めたようにため息をひとつつくと、景時はてきぱきと身の回りを整えはじめた。洗濯を一時中断して、自ら譲のもとへと向かうつもりなのだろう。
一度お屋敷に上がって、洗濯物を取りに行って、また洗濯をはじめて。
……なんだか、ものすごく手間がかかりそう。景時さん、ただでさえ忙しいのに――。
「景時さん、」
見かねた望美は景時を呼び止めた。
「うん?」
「わたし、譲くんのお部屋に行って洗濯物、預かってきます。景時さんはお洗濯、続けててください」
一瞬、顔を輝かせた景時は、しかしすぐさまなにかを思い出したかのように、丁重に望美の申し出を辞退した。
「ありがとう。気持ちは嬉しいけれど、望美ちゃんにそんなことさせるわけにはいかないよ。いいから、ゆっくり休んでて。これはオレの仕事だからさ」
「いいんです。ほら、わたし、いつも景時さんたちにお世話になりっぱなしだから――ちょっとでもお手伝い、させてください」
「え、でも、」
なおも必死に彼女を思いとどまらせようとする景時――朔に知れたらなにを言われるかわからない、とかなんとか――の静止も聞かずにすっくと立ち上がると、望美はそのまま真っ直ぐ譲の部屋へと赴いた。
ありがとう望美ちゃん、すごく助かる、でも朔には内緒にしてね、お願いだよ、と、途切れ途切れになった言葉を背中で受け止める。悪いなあと思いつつも、望美は笑みを禁じえなかった。天下の梶原さまも、可愛い妹御には敵わない。
「譲くん。譲くん、望美だけど」
ドアをノックする要領で、襖をとんとん、と軽く叩く。
「譲くん、譲くーん。……いないの?」
極力音を立てないように襖を開けて、わずかな隙間から部屋の中を覗く。譲が、目を閉じて横になっているのが見えた。すう、すう、と微かに寝息が聞こえる。
めずらしい、と望美は率直に思った。早寝早起き、日ごろから規則正しい生活を送っている譲は、昼寝とは無縁のひとだった。その譲が、明るいうちから寝入っている。
そういえば、今朝、しきりにあくびをかみ殺していた気がする。
昨晩、あまり眠れなかったのだろうか。今、起こしてしまうのは可哀相な気がして、望美は襖障子に手をかけた。景時には悪いが、洗濯は明日でも明後日でもできる。今は、譲をゆっくり休ませて上げたかった。
「う、……ん」
不意に響いた譲の声に、どきりとする。そっと室内に目をやると、譲がもどかしそうに寝返りを打っていた。計らずも、望美のほうに身体を向ける。
譲の顔を正面から捉えた瞬間、望美はあっと息を呑んだ。額にうっすらと汗を浮かべた譲は、苦しそうに顔をしかめている。ぎゅっと眉根をきつく寄せるその姿に、望美は見覚えがあった。
そう、あれは、遠い昔。確か、望美が小学校に上がったばかりのころ――。
詳しい経緯は覚えていない。その日、望美の両親は、譲と将臣の両親と一緒にどこかへ出かけた。夜遅くまで帰ってこないということだったので、有川兄弟は望美の家に泊まることになったのだった。
子どもたちだけで過ごすはじめての夜に、胸を躍らせた。めいっぱい遊ぼうと、綿密な夜更かしの計画を立てようとした。それでも睡魔には勝てなくて、早々に部屋に引き上げたような記憶がある。望美は自室に、譲と将臣はすぐ隣の客間に。
二人におやすみなさいを言ってから、どれくらいの時間が経過したのかわからない。気がついたとき、譲がベッドのそばに立っていた。
「のぞみちゃん」
今にも泣き出しそうな顔で自分を見下ろしている、一つ年下の幼なじみ。眠気に負けそうになる両まぶたをこしこしこすりながら、望美はゆっくりと身体を起こした。
「ゆずるくん?……どうしたの?」
「こわい夢を、見たの」
か細い声で、譲はぽつりと言った。
「すごくすごく、こわい夢」
じんわりと、譲の目じりに涙が浮かび上がる。夜中にひとり、部屋を抜け出してくるくらいなのだから、余程恐ろしい夢を見たのだろう。
「まさおみくんは?」
譲が兄ではなく、隣の部屋にいる自分を頼ってきたことを不思議に思い、尋ねてみる。
「ぐっすり寝てて、全然起きてくれない」
「そっか……」
望美はベッドの端に身を寄せると、おいで、と譲を手招きした。
将臣がいない今、譲を護るのは、「お姉さん」である自分の役目だ。ややあって、譲がするりと寝台に滑り込んでくる。
「もう、だいじょうぶ。こわくないからね」
「うん」
「ずっとのぞみがそばにいるから。だから、安心して眠っていいよ」
「うん」
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
おずおずと、譲は目を閉じた。眉間にしわを寄せて、ぎゅっと、かたく目を瞑る。あまりにも苦しそうな様子だったので、心配になった望美は思わず声をかけた。
「ゆずるくん、ねえ、だいじょうぶ?」
譲はふるふると首を横に振ると、望美に抱きついた。細い肩が小刻みに震えている。
「あのね。どんなにがんばって寝ようとしても、だめなんだ。まぶたの裏が、赤くなって――真っ暗になる」
「まぶたの裏が赤くなって、黒く、なる?」
「うん。どうしてなのか、わからない。真っ赤で、真っ黒で、……それだけなんだけれど、それがすごくこわいんだ」
ぽろぽろと涙を零す譲をなんとか元気づけたくて、望美は懸命に頭を働かせた。
自分が怖い夢を見たとき、眠れなくなったとき、どうしていただろう。両親のベッドに潜り込んだり、した。でも小学校に上がってからは、もう小学1年生なんだからと自分の部屋に戻された。それでも眠りにつけなくなったときは枕元に母を呼んで、そして。
そうだ、おかあさんが――。
「ゆずるくん、今から、こわいのがどこかに行っちゃうおまじない、してあげるね」
そう言うや否や、望美は譲の額に唇を押し当てた。
「こわいの、こわいの、飛んでいけー」
悪夢を見て目が覚めたとき、母親は「おまじない」と称して額にキスをしてくれた。そうすると、不思議なくらいすんなりと眠りに落ちるのだ。怖くなくなる、秘密の魔法。
「こわいの、こわいの、飛んでいけー」
何度も何度も、復唱する。いつしか、腕の中の譲が安らかな寝息を立てはじめるまで、何度も何度も――。
ああ、あのときと同じ顔をしてるんだ。
合点がいくと同時に、望美は襖に添えた手に力を込めた。静かに襖を押しやる。ようやく自分ひとりが通れるくらいの間を作ると、彼女は忍び足で譲に近づいた。
もう、一緒に眠ることはできないけれど。ぎゅっとしてあげることもできないけれど、せめて。
「……こわいの、こわいの、飛んでいけ――」
10年前と同じ呪文を唱えながら、ひざまずく。軽く前髪を掻きあげてから、望美は譲の額に唇を寄せた。触れるか触れないか、ぎりぎりの、口づけ。
「いい夢が、見られますように」
こんこんと眠り続ける譲にそっと微笑みかけると、望美は物音を立てないように細心の注意を払って部屋を後にした。
景時が、待っている。
ちゃんと事情を説明して、譲の洗濯物は明日に回してもらおう。
「おやすみなさい、譲くん」
襖障子を引く際、隙間から見えた譲の寝顔が、いくらか穏やかになったような気が、した。