さて、どうしたものか、と。
真新しい夜着に身を包み、固い面持ちでこちらの動向を伺っている花嫁を見やると、弁慶は人知れずため息をついた。膝と膝がくっつくほどの至近距離。室内を満たす静寂が、重い。
「――望美さん」
このまま、沈黙を保ち続けるわけにもいかない。ささやくようにその名を口にすると、小さな肩がぴくり、とふるえた。つぶらな瞳に微かな怯えの色が走ったのを、見逃す弁慶ではない。わずかに手を伸ばせば触れられる、それほど近くにいるのに、……そうすることはためらわれた。
『弁慶さんと一緒にいたい、……です』
紅葉を散らし、京に残ると彼女が弁慶に伝えたのは、つい今朝方のこと。皆の祝福もそこそこに、九郎と景時の勧めで望美の荷物を六条堀川の邸へと運び出すこととなり、瞬く間に一日が過ぎてしまった。
さっと汗を流し、ほっと一息ついて、今――二人は、はじめての夜を迎えようとしている。
……だいじょうぶ。取って食べたりなどしないから、安心してください。そう言いかけて、弁慶は思わず苦笑した。「花嫁」との「初夜」を前にして、これほど似つかわしくない言葉もない。
だが実際、弁慶は彼女をどうこうするつもりはなかった。この地に留まることを選択したとはいえ、愛する家族や友人に別れを告げたばかりなのだ。明るく振舞ってみせても、淋しい思いをしているに違いない。そんな彼女を気に病ませるようなことはしたくない。
それに、と弁慶は思う。望美はもう、どこにもいかない。これからはずっと、自分のそばにいるのだ。焦る必要はどこにもない。少しずつ、二人の時間を刻んでゆけばいい。
「望美さん、僕は今夜、九郎の部屋で休むことにします」
はっと、望美が大きく目を見開く。
「弁慶さん?」
予想外の提言だったのだろう、こちらの思惑を図りかねているようだった。弁慶は望美の髪を柔らかく撫ぜると、諭すように言った。
「今日はたくさん働いて、疲れたでしょう?ゆっくり身体を休めてくださいね。朝餉の準備が整ったころに、君を起こしにきますから」
おやすみなさい、と就寝のあいさつを残して、弁慶はすっくと立ち上がった。九郎が、まだ起きていてくれるといいのだけれど。そうぼんやり思いながら襖に手をかけたとき、
「――待ってっ」
くいっと、衣服が引かれた。振り返ると、望美がしっかと衣(ころも)の端を固く握り締めていた――まるで、なにがあっても離すまいとでも言いたげに。その双眸は冴えた光をたたえ、静かに弁慶を射抜く。
「望美さん?」
どうかしましたか、と喉元まででかかった声は、寸(すん)でのところで行き場を失った。望美が、突如弁慶に抱きついたためだ。
なにが起こったのか、すぐには理解できなかった。勢いよく胸に飛び込んできた少女をどうにか受け止めるだけで精一杯だった弁慶は、そのまま均衡を崩して後方へとひっくり返る。
「――……っ」
心の準備をする間もなく降ってきた衝撃に、頭の中が真っ白になる。ややあって我に返ったとき、間近に望美の顔があった。甘い吐息が、ふっと鼻先をかすめる。
「の、のぞみ、さん……?なにを……」
「どこにもいかないで。ずっと、そばにいて」
凛と、はりつめた声。その視線はどこまでも真摯で、わずかな甘みさえも含まれていない。不安も怯えも恥じらいもない、ただ――揺るぎのない決意。
「望美さん――」
弁慶は目を丸くした。一体なんて顔をして、そんなことを言い出すのだろう。
「……だいじょうぶだから」
弁慶の言わんとすることを悟ったのか、望美は消え入るような声で囁いた。
「わたし、だいじょうぶだから。だから――今夜は、ずっとそばにいてください」
「だけど、」
早まらないでほしい。どうか、無理だけはしないでほしい。言いたいことは山ほどあった。どうにかして彼女を思いとどまらせようと試みるも、頬をくすぐる望美の長い髪が、弁慶から理性を奪う。
「望美さ、」
「……動かないで、弁慶さん。そのまま、じっとしていてください」
跳ね起きて、彼女を止めることだってできたはずだ。だが弁慶は、呪縛にかかったかのように身動きひとつ取れなかった。されるがままに、事の成り行きを見守る以外になにもできない。
ゆるゆると、影が落ちる。ゆっくりと、望美の唇が降りてくる。布越しに伝わる、肌のぬくもり。近づいて近づいて、そして――額に、柔らかい感触。
――額?
「………」
弁慶は、じっと望美の言葉を待った。だが望美は、なにも言わない。瞳を固く閉じているせいか、狙いが大きく逸れたことに気がついていないようだった。
まいったな、と弁慶は胸中で独りごちた。彼女が男を知らないことくらいは当に見抜いていたが、……口づけの経験さえもないことは意外であった。
ああ、でも――あんなに立派な「番犬」が二人もついていては、それも仕方がないかな。
どれだけ多くの男たちが、愛らしい彼女を前に涙を呑んだことだろう。譲と将臣にがっちりと両脇を固められた姫君は、彼らにとってまさしく高嶺の花だったに違いない。
だったら、なおさら――。
「望美さん」
「………」
弁慶は、指先で軽く望美の髪を梳いた。返事はない。
「その、君の気持ちは大変嬉しいのだけれど……そこは、僕の額ですよ」
「………、え、ええ!?」
一瞬の間を置き、望美がばっと跳ね起きた。やはり、今の今まで気づかなかったらしい。
「ご、ごめんなさい、弁慶さん……あの、今度こそ、今度こそちゃんとしてみせますからっ」
そう言うや否や、望美は再び弁慶に覆いかぶさった。寄せる、というよりはぶつけるような形で、ぎゅっと唇を押しつけてくる。
「――望美さん」
たまらず弁慶は口を開いた。
「………」
「惜しいですけど、……そこは、鼻の頭です」
「……、〜〜〜〜っ」
声なき悲鳴を上げ、望美は弾けたように飛び退(すさ)った。今にも泣き出しそうな顔で、弁慶を見ている。
ああ、このひとは。
その意気込みも、努力も、健気さも、全部買ってあげたいと思うけれど。必死に自分に応えようとする彼女の姿はあまりにも痛々しくて、目も当てられない。
弁慶は半身を起こすと、そっと望美の身体を引き寄せた。優しく頭を撫ぜる。
「――よしよし」
愛しかった。この不器用な娘が、ただただ愛しかった。
「弁慶さん……?」
「いけないひとですね。本当はすごく怖いのに、無理をするなんて」
ちゅ、と額に優しく口づける。
「背伸びをしなくてもいいんです。どうか君は、君のままでいてください。君の心に正直でいてください。僕は……いくらでも待っていますから」
「でも、」
なおも不安を隠せないでいる望美に、弁慶はにっこりと笑いかけて言った。
「ありがとう。君の気持ちは、とても嬉しかった。――それだけでもう、十分です」
その言葉を合図に、ほっと望美の表情がほころんだ。そろそろと、恐る恐る両腕を腰に回してくる。やがて彼女はぴとっと頬を弁慶の胸に押しつけた。心底幸せそうに。
「――弁慶さん」
「うん?」
「弁慶さん、大好きです」
「………っ」
きっと無意識なのだろう。安堵のあまり、甘えているだけだ。わかっている、ちゃんとわかっている、それでも――望美は、その無防備な姿で軽やかに突き崩してゆくのだ。弁慶が保っている平静のひとかけを、情け容赦もなく。
頬が、火照る。心臓が早鐘のように打ちつける。こんな想いを、自分はかつて一度でも抱いたことがあっただろうか――。
「……君は、本当にいけないひとですね」
「え?」
「そんな顔をされたら、……僕の我慢も、水の泡じゃないですか」
「弁慶さん、え、わ、……ひゃ……っ」
弁慶は望美を抱く腕に力を込めると、有無にその白い首筋に唇を這わせた。微かにふるえる声が、ふわりと鼓膜を打つ。
「あ、……べんけいさ、ん……っ」
彼女は知っているのだろうか。なにげないひとつひとつの仕草が、幼さを残した声が、どうしようもなく自分を煽るのだと。
――僕は、君の前ではこんなにも余裕のない男に成り下がる――。
そっと唇を離すと、白磁の肌に薄紅の刻印が成されていた。麗しの姫君が自分のものであることを如実に物語る――証。
「べ、べ、弁慶さ……っ!」
顔を真っ赤に染めた望美が、首筋に手を宛(あて)がいながら目を白黒させている。
「今日は、ここまでにしておきますね」
ちろっと舌を見せて、弁慶は茶目っ気たっぷりに笑ってみせた。
「これ以上続けたら、君との約束を守れそうにないから」
返す言葉もなく、口を金魚のようにぱくぱくと開閉している望美。弁慶は彼女の髪をくしゃ、と軽く掻くと、今度こそ部屋を発(た)つために立ち上がろうとした。
「驚かせてしまってごめんなさい。今度こそ、ゆっくり休んでくださいね」
「――待って」
再びくいっと、衣服が引かれた。望美が、上目遣いで弁慶を見ている。
「望美さん?」
「あの、……まだ、お嫁さんらしくなれないし、……ちょっとだけ、怖いけれど、……それでも、弁慶さんと夜も一緒にいたい、です……」
ああ、
「……だめですか?」
「――だめなわけないじゃないですか」
まだもう少し、我慢競(くら)べは続くのかな?
頬を朱色に染め、たどたどしくも懸命に己の想いを吐露する望美を、弁慶を愛(いと)おしむように優しく抱きしめた。
静かに、穏やかに、はじめての夜は更けてゆく――。