からん、と。
虚空に響いた、あの乾いた音が今も耳から離れない。
まるで、はじめから存在などしていなかったかのように。
たった一本の笛だけを残して、あなたはわたしの前から消えた。
……永遠に。
厳島で清盛を封印したその夜、たちは壇ノ浦に構えてあった源氏の陣営に戻った。
陣内では、勝利の祝賀が盛大に行われていた。還内府は若き帝とともにいずこへと逃げ果(おお)せ、三種の神器の奪還はならなかったものの、平家方をほぼ壊滅状態に追い込むことができた。源平の戦は、幕を閉じたのである。
皆、思い思いに戦勝の余韻に浸っていた。口々に源頼朝の名代である九郎を称え、彼をそばで支えた源氏の神子に賞賛を送る。英雄たちの帰還によって、宴はたけなわを迎えようとしていた。
ほろ酔いの兵たちの目を盗むようにして、はそっと、陣を離れた。
どこでもいい、ただ今は、今だけはひとりになりたかった。にぎやかな宴に水を差したくはなかったし、なにより、八葉のみんなに余計な心配をかけたくない。
――敦盛さん。
胸に、ぽっかりと大きな穴が開いたようだった。そこからあらゆる感情が流れ落ちてしまったのだと、思う。だってもう、笑えない。哀しいのに、泣くことさえもできない。時間ばかりが、ゆるゆると過ぎていく。
心の大切な一ピースを失ったひとは、一体どうやってこの隙間を埋めるのだろう。
ふらふらと、当てもなく辺りを彷徨っているうちに、海が視界いっぱいに広がった。
砂浜まで足を伸ばす。さく、と砂を踏みしめる音が夜の静寂(しじま)に響く。寄せては返す小波。世界は、こんなにも淋しい音色に満ちていたのだろうか。
――敦盛さんの笛の調べに、よく似てる。
やがては適当な場所で歩みを止めると、砂の上に直接腰を下ろした。ややためらいがちに、一本の横笛(おうてき)を懐から取り出す。
彼女の世界では青葉の笛と呼ばれている、無官の大夫・平敦盛の遺品。まさか、自分がこれを手にすることになろうとは、夢にも思っていなかった。
厳島で、清盛は敦盛の内なる力の解放を謀った。彼を人としてつなぎとめていた八尺瓊の勾玉を破壊し、自らの手で神子を殺めるように仕向けた。
正気を失った敦盛に首を絞め上げられたとき、は死を覚悟した。不思議と恐怖は感じず、ただ敦盛を、愛するひとを護れなかったことだけを心残りに思った。
薄れゆく意識の中で、真紅に染まった敦盛の双眸を捕らえたのはその瞬間だった。
紅の瞳は、怨霊の証。それは怒りと憎しみ、そして深い哀しみを語る色。その奥に、理性の光がかすかに灯っていた。
『神子、早く。私を――』
視線と視線が絡まった刹那、は敦盛の望みを汲み取った。それは痛みを伴う選択。拒めるものなら、そうしたかった。わずかな希望があるのなら、すがりたかった。だけど。
もうこれ以上、あなたを苦しめたくは、ない――。
は渾身の力をふりしぼって敦盛の背中に腕を回した。ゆっくりと、言の葉を唇にのせる。怨霊を浄化するための呪文を。
音が消える。色が消える。世界が、二人を取り巻くすべてが、消える。敦盛のぬくもりだけが、自分が生きていることを教えてくれる。
それまで首を圧迫していた敦盛の両手が、いつの間にか自分の頬に添えられていた。最初で最後の、抱擁。それは、永遠のような一瞬。
ふわり、と、儚げに微笑んで。
緋色の瞳に、すっと青みが戻ったあの瞬間を忘れない。
――敦盛さんは、救われたのだろうか。
厳島を離れてから、ずっと心に引っかかったままの問い。
敦盛の姿が空(くう)に溶けたとき、なによりも先に脳裏をかすめた。泣くことよりも、哀しいと感じるよりも早く。
――わたし、力に、なれたのかな……。
もう逢えないのに、と自分に言い聞かせようにも、感情は鈍い反応しか示さない。
本当に、もう二度と逢えないのだろうか。ひょっとしたら、意地悪な夢を見ているだけかもしれない。目が覚めたら敦盛さんがそこにいて、おはよう神子、って――。
「……やっぱりここにいた」
と。にわかに降ってきた声に、現実へと引き戻される。
弾かれたように振り返ると、額に指先を突きつけられた。ヒノエが、いたずらっぽい笑顔を浮かべてこちらを見下ろしていた。
「隙あり、姫君」
「ヒノエくん」
予想もしていなかった来訪に、驚きを隠せない。どうやら、少しばかり追憶にひたりすぎていたらしい。人の気配を察知する余裕が、まったくなかった。
「どうして、」
訊きたいことはたくさんあった。どうしてここに、とも、宴はどうしたの、とも、みんなのところにいなくてもいいの、とも。
「姫君がひとりでこんなところにいるのに?」
尋ねる前に、答えが返ってきた。
思わず苦笑が漏れる。相変わらずだ。いつだって、自分はヒノエには敵わない。
のことなら、なんでもわかるんだ。ヒノエは得意そうに胸を張ると、の隣に回り込んだ。細い足を、惜しげもなく砂浜に投げ出す。
潮騒が、沈黙を優しく埋めていく。ヒノエはなにも問いただそうとはしなかった。無言のまま、雲の合間をのぞく朧月を眺めていた。
「……ありがとう」
だからだろう。ヒノエがなんの前置きもなく話の口火を切ったとき、はどう反応していいものかわからなかった。ありがとう、と、彼は言う。なにに対する感謝なのだろう。
じっと、ヒノエの端整な横顔を見やる。淡い笑みが、口元に浮かんでいる。真っ直ぐに注がれる視線に気づいたのか、やがてヒノエはゆっくりと顔をのほうへと向けた。
「あいつを――敦盛を救ってくれて、ありがとう」
なんて、優しい顔。なんて、穏やかな物腰。
そこにいたのは、の知らないヒノエ。敦盛の幼なじみである、ヒノエ――。
「つらい想いを、させちまったな」
ふるふると、静かに頭(かぶり)を振る。
違う。そんなこと、ない。一番つらいのは、わたしじゃない。誰かに労わってもらう資格なんて、ない。そんなものどこにもないの。
そう言いたかったが、声にならない。苦しくて、息さえうまくできない。の様子を知ってか知らずか、ヒノエは声の調子を変えることなく淡々と続けた。
「の選択は、間違ってなかった。あいつは、おまえの手で浄化されることを願っていただろうから」
「……どうして?」
辛うじて、声を絞り出す。
「わたし、なんにもできなかったんだよ――」
「神子」として、「怨霊」である敦盛を封印した。彼の苦しみを取り除くことができたと、今も信じている。彼女の決断は、ヒノエの言うように間違ってはいなかったのだろう。
だが、これは彼女の望んだ結末ではなかった。もっと、笑っていてほしかった。幸せに、なってほしかった。たくさんの想い。たくさんの希望。――だけど敦盛は、もういない。どこにもいない。
わかって、いるのに。
心が動かない。前に、進むことができない。
そう――緋色の瞳に、すっと青みが戻ったあの瞬間から、ずっと。
「誓ったのに。敦盛さんを護るって、誓ったのに。なんにもできなかった……!」
「いいや」
間髪いれずに、首を横に振るヒノエ。どうして彼は、いつもそんなにも確信に満ちているのだろう。自分がまだ手にしていない答えを、彼はすでに持っているように見える。
「が動かなかったら、敦盛は、自分を取り戻すことはできなかっただろう。おまえは確かにあいつを、……ヒトとしての敦盛を、護ったんだ」
「でも……っ、わた、し……」
「それにね、」
ぐずぐずと、言葉にならない言葉を連ねようとするをさえぎって、ヒノエは続ける。
「結果として、あいつは、おまえを手にかけずにすんだ。そして、おまえの――愛する女の腕の中で、ヒトとして逝けたんだ。本望だと……思う」
『愛する女の腕の中で、ヒトとして』
どくん、との胸が大きく高鳴った。
敦盛さん。
胸の奥がどうしようもないほどに震えて、目頭がじんと熱くなって。
手にした横笛を、指が白くなるほど固く、固く握りしめる。
「あいつ、笑ってた。オレが今まで見たので一番、いい顔していたんだよ――」
敦盛さん。
敦盛のことばが。しぐさが。その笑顔が。ぬくもりが。
想いが、あふれる。凍りついた心が、ゆっくりとほどけていく。心が、泣きたいほどに、痛い。
敦盛さん、……敦盛さん――。
もういない。もう、どこにもいない。
「――」
一拍置いて、ヒノエはの瞳を覗き込んだ。
長い、長い一瞬。
「もう、無理しなくても、いいよ」
そう言うと、ヒノエはの身体をそっと引き寄せた。
「ヒノ、エ、くん……?」
「ずっと、ひとりで。こんな細い肩にずっと、源氏の名を背負ってきたんだな」
きつく抱きしめる。視界が薄闇に閉ざされた。ただ、ヒノエの胸の鼓動と波音だけが、微かに耳を打つ。
「……いいか、。よおく、聞きなよ。今、陣の外にいるおまえは、源氏の神子じゃあない。気丈な戦女神である必要は、ないんだ」
ヒノエの指先が、ゆるくの髪を梳く。
「泣いていいんだよ、。思いっきり。気がすむまで、泣いていいんだ。あとで泣き足りなかったと後悔しないように」
「ヒノエ、く……」
その言葉を合図に、の視界が一挙に曇った。涙が、堰を切ったようにとめどなく流れる。
「……う、く……は、ふっ……う……っ」
敦盛さん、敦盛さん、敦盛さん――!
「誰にも聞こえやしない。海が、なにもかもかき消してくれるから」
そのままは、ヒノエの腕の中で子どものように泣き続けた。何時間も何時間も、泣きつかれて眠ってしまうまで、ずっと。
しゃらしゃらと、芽吹いたばかりの梢が、優雅に風に舞う。
そう遠くないうちに、きっと初々しい若葉がためらいがちに顔をのぞかせる。
くるくる、まわる。めぐる。あなたの愛したこの世界。
しばらくは、季節の移り変わりを心待ちにすることはできないでしょう。
あなたと過ごした時間。あなたと見たすべて。なにもかもが、あなたに繋がっているから。
胸が痛んで。涙があふれて。
けれど。あなたのぬくもりも思い出も、この痛みでさえも、わたしとともに生きていく。
……永遠に。