熊野での休息は、決まって将臣の一言からはじまる。
「ここいらで一休みしようぜ」
暗く深い緑の森を抜け、開けた場所に出たと同時に、彼は口を開いた。
渋る九郎、苦笑する弁慶。それでも、これといった不服は唱えない。
神子の判断を待つ必要はなかった。きっと彼女はいつものように微笑(わら)って、いいよ、と答える。無理強いは決してしない。
「そうだね。たくさん歩いたし、ちょっとお休みしようか」
がそういうと、辺りの空気がふっと和んだ。
景時が、待っていたといわんばかりにいそいそと休憩の準備に取り掛かる。まもなく、どこからともなくヒノエも姿を現すだろう。八葉が満ちたと、白龍が喜ぶに違いない。そんないつもの光景が、目に浮かぶ。
皆が思いのままに羽を伸ばしはじめるのを見届けてから、敦盛はくるりときびすを返した。
熊野に入ってから、敦盛は休息を一人で取ることが多かった。輪の中に入るのを躊躇しているわけではない。敵方の陣に組していた敦盛に対して、誰もがよくしてくれている。
……それでも。
今は、今だけは、懐かしい熊野の自然に身を委ねていたい気分だった。
思い出が眠る熊野に。
少し足を伸ばすと、見渡す限り続く草原に出た。
敦盛は適当な場所を見繕うと、そこに寝転んで空を仰いだ。雲が、ゆるゆると流れている。
幼いころ、この広い空の下をヒノエや弁慶と駆け回っていたものだった。空も、光も風も、あのころとなにひとつ変わっていない。――変わったのは、自分。
両手首に掛けられた戒めを見やる。人ならぬ身である自分を、人としてつなぎとめてきた楔。
今まで、この鎖で己のうちに眠る穢れた力を抑えることができた。だが、その封印も日に日に弱まってきていることを敦盛は肌で感じていた。このままでは――八尺瓊の勾玉を持たない状態では、人の姿を保っていられるのも時間の問題だろう。
私の中の穢れが開放されたら、神子を傷つけることになってしまうかもしれない。
彼女の手によって浄化されるのは、一向にかまわない。むしろ、本望ですらある。だが、正気を失った自分が彼女を苦しめることだけは、あってはならなかった。
そっと眼を閉じる。まぶたの裏に浮かぶのは、凛々しくも可憐な彼女の姿。
寝ても醒めても、彼女は敦盛の心を捕らえたまま離さない。
そばにいたい。そばにいてはいけない。二つの相反する想いが、敦盛の胸の中でせめぎあう。
花のような笑顔で敦盛を迎え入れ、「仲間」と呼んだ彼女の存在は、心の中で日増しにふくれあがっていくばかり。未だかつて味わったことのない感情を、敦盛は持て余していた。
「神子……」
我知らずに、口をついて出たことば。
「はい?」
それに対してよもや返事が返ってこようとは、想像だにしていなくて。
なにを考えるよりも先に、敦盛は反射的に飛び起きた。
「み、神子!?」
「敦盛さん」
すぐそばに、が腰を下ろしていた。丸い瞳を大きく見開いて、敦盛を見ている。
頬をうっすらと赤らめ、ごめんなさい、と消え入るような声でわびてから、彼女は申し訳なさそうにうつむいた。
「お休みの邪魔、しちゃいましたね……」
「そ、そんなことは、ない」
まさか、神子がすぐそばにいたとは。
思わぬ展開に、動悸が早鐘のように激しくなる。
動揺を悟られないために、敦盛は必死でことばを探した。
「神子は、どうしてここに?」
「……敦盛さんを、追いかけてきたんです」
予想もしていなかったことばを受けて、敦盛は一瞬、たじろいだ。神子が、自分を追いかけてきた?
敦盛の沈黙を非難として解釈したのか、はだって、と小さな声で二の句を続けた。
「だって敦盛さん、熊野に入ってから、お休みはいつもひとりで過ごしていたから」
「え……?」
「いけないとは思ったんですけれど、どうしても気になって……こっそりついてきちゃいました」
「………」
「敦盛さん、なにか悩みごとや心配ごとでもあるんですか?わたしでよければ、話してくれませんか」
わたし、敦盛さんの力になりたいんです。
真剣な光をたたえたまなざしが、まっすぐに敦盛を射抜く。
知っていた。気に掛けてくれていた。それだけで、胸があたたかい気持ちでいっぱいに満たされていく。
同時に、神子にいらぬ心配をかけてしまった自分の至らなさを、敦盛は恥じた。よりにもよって神子の護り手たる八葉である自分が、神子を不安にさせてしまっている。
「面倒をかけてすまない。ただ、少しの間だけ、ひとりになりたいと」
ひとりになりたい、ということばにの表情が曇る。
敦盛は慌てて頭(かぶり)を振った。自分が話術に長けていないことを、これほどもどかしく思ったことはついぞない。
「その、大したことではない。ただ、熊野で過ごした日々のことを、思い返していた……」
の反応をうかがいながら、ひとつひとつ、慎重にことばを選んでいく。
彼女の張りつめた表情がふっと和らいだのを認めてやっと、敦盛は安堵することが許された。
「そういえば、敦盛さん言ってましたね。熊野に来るのは久しぶりだって」
柔らかい微笑をたたえて、がいう。
「熊野へは、何度も?」
「ああ……熊野は、平家にとっても縁(ゆかり)のある場所だから。幼少のころは、京よりも熊野で過ごす時間のほうが多かった。その折に、ヒノエや弁慶殿とよく遊んだものだった。今でも鮮明に覚えている」
それだけではない。熊野の記憶は、兄・経正や惟盛、知盛、そして清盛――今は袂を分かった親族とともに過ごした優しい記憶でもあった。
「好きなんですね、熊野が」
神子のことばに、敦盛は面食らった。
すき。神子は、そのことばをこともなげに口にする。
「私が……?」
「はい。弁慶さんも敦盛さんも、熊野に来てからすごく生き生きしてる。誰もなにも言わないけれど、熊野が好き、って顔、してる」
心底嬉しそうに、破顔する神子。
「ここは敦盛さんにとって、大切な思い出が刻まれた場所なんですね」
ことん、と。敦盛の中でなにかが動く。
あの夜、京の都で出逢ったときも。三草山で再会を果たしたときも、そして今も。
彼女は、なにげないことばで常に敦盛の心を解きほぐす。押し留めていた想いが、堰を切ったようにあふれ出す――。
「だが、……熊野で過ごした時間は、今となっては哀しい記憶でしかない」
――大切な思い出が、刻まれた、場所。
確かにそうだ。の言っていることは間違っていない。間違っていないからこそ、残酷なまでに思い知らされる。もう、あの日々には二度と還れないことを。
「敦盛さん……?」
「熊野は、変わらないのに。なにひとつ、変わっていないのに。私はもう、あの日の私とは違う。私だけがひとり、甘美な記憶の中に取り残されてしまった気がする――」
怨霊の身となった、私だけが。
危うく口をついて出そうになったことばを、辛うじて飲み込む。
いずれ、彼女は自分の正体を知ることになる。両腕の戒めがちりちりと警告する。時間は、それほど多くは残されていないのだと。
それならばせめて、時間の許す限りは人として彼女の前に在りたい。意識を保てる最後の瞬間まで、人として彼女の目に映っていたい。そう、敦盛は切に祈る。たとえ赦されないことであっても。
それは、未だかつて感じたことのない未練。
――なにに対しての、未練?
「……思い出を哀しい、と感じるのは」
はっと、我に返る。
歌うように、がことばを紡いだ。
「それはきっと、敦盛さんが幸せだった証拠だと思います。……でも」
彼女は真っ向から敦盛を見据えた。その澄んだ眼を、片時も逸らすことなく。
「でも、……現在(いま)を、否定しないでください。今の敦盛さんを、拒絶しないでください」
そう言うやいなや、は敦盛に向かって手を伸ばした。
自分は穢れているから、触れてはいけない――拒むことならいくらでもできたはずなのに、敦盛はされるがままになっていた。動けない。魅入られたように、彼女から目が離せない。
ひやりとした指先が頬を滑るまでに、大して時間はかからなかった。
甦ってから、一度も接したことがなかった人のぬくもり。その懐かしさに、敦盛の心はひどく痛んだ。
「記憶に縛られないで」
小さな声で、ささやく。恐れないで、と。
「変わったものも、たくさんあると思う。でも、変わらなかったものだって、あります。これからも変わらないものだって、ちゃんと」
にっこりと、が微笑(わら)う。慈愛に満ちた、優しい母のように。
その言葉にはじかれ、敦盛は彼女を凝視した。一瞬、心の中を見透かされたような気がしたのは錯覚だろうか。
変わるもの。変わらないもの。
「ヒノエくんや弁慶さんは、敦盛さんのこと、ちゃんと覚えていた。わたしは、子どものころの敦盛さんを知らないけれど……でも、今ここにいる敦盛さんを、記憶に刻んでいきます。ヒノエくんも弁慶さんも、ほかの八葉のみんなだって――」
どうして、という疑問が敦盛の脳裏をかすめる。
どうして彼女は、こんなにも容赦なく自分の心の琴線に触れるのだろう。それこそ、自らに課した抑制が緩んでしまうほどに。
「……神子」
震える声を、辛うじて絞り出す。
「はい」
「私は、……今のままでいてもいいのだろうか」
いいはずがない。自分は、怨霊だ。この世に留まってはならない存在だ。……それでも。
ほんのつかの間でいい。その場限りの言葉でもいい。ただ、今のままの自分を、ここにいる自分を、彼女に認めてほしいと願う。このわがままをどうか。
「今のままの敦盛さんでいてください」
敦盛が見惚れてしまうほどの晴れやかな笑みを浮かべて、は答えた。逡巡もなにもない、即答。
「どうか、ありのままのあなたでいてください」
「……ありがとう」
あなたのことばは、私に勇気を与える。
敦盛は静かに瞳を閉じた。
この世に存在する限り、自分の力のすべてをもって、神子を護ってみせる。自分が怨霊として目覚めた意味が、そこにあるような気がした。
不安がないわけではない。残された時間は限られている。それでも。それでもせめて、もう少しだけ。あと少しだけ、夢を見ることが赦されるのならば。
「神子、皆のもとへ戻ろう。あまり長く留守にしていると心配する」
「そうですね」
はこくんとうなずき、すっくと勢いよく立ち上がった。
「戻ろう、敦盛さん」
「ああ」
もう戻れない。あの日の自分には、還れない。
だけど途方に暮れるわけにはいかない。あなたが、前方で手を振っている。今の私を、待ってくれている。
今しばらくは、あなたのそばにいたいという私のわがままを、赦してほしい。
先を歩く神子の背中に向かって消え入りそうなほど小さな声でつぶやくと、敦盛は一歩、前へと踏み出した。まだ見ぬ明日へと続く、その一歩を。