とある、春の陽気に包まれた一日。
いつもにぎやかな梶原邸が、今日はめずらしくひっそりとしていた。
九郎は連日神泉苑に出向いており、弁慶は比叡山に用があるといって今朝早くから館を空けている。
館の主である梶原兄妹といえば、白龍と譲を伴って嵐山へと繰り出していた。
現在館内に残っているのは、足首をひねって自宅静養を言い渡された白龍の神子・と、特にすることもなく、暇を持て余していたヒノエの二人だけ。
は、縁側にころんと寝転んで気持ちよさそうに日向ぼっこをしていた。その様子はどこか、身体を丸めてぬくぬくしている猫を髣髴させる。あまりにも無防備な彼女の姿を見て、ヒノエは失笑を禁じえなかった。
「いいの?オレなんかが残ってて」
神子の護衛を任されたとき、ヒノエは不敵な笑みを浮かべてこういった。
「姫君に、悪さしちゃうかもしれないよ?」
ひょいと肩をすくめる景時。呆れたように嘆息する朔。なにをいっているのかわからない、とでもいいたげに目を丸くする白龍。誰一人として、ヒノエの発言を真に受けなかった。
「だいじょうぶ」
ただひとり、譲だけがこめかみに青筋を浮かべていたが、件の姫君当人の言葉を受けてしぶしぶ引き下がったのだった。
「ヒノエくんはそんなことしないって、わたし知ってるから」
にっこりと断言されて、さすがのヒノエも二の句を継げなかった。
そうして、現在に至る。
『知ってるから』。出逢ってからほんの数日しか経っていないというのに、彼女は、まるでずっと前からヒノエのことを知っているかのような口ぶりでものをいう。
そのせいだろうか。ヒノエ自身もまた、昔から彼女のことを知っているかのような感覚に捕らわれることがある。そんなはずはないと十分にわかっていながらも、心が時折惑わされてしまう。
ひとを疑うことを知らない、無垢な神子姫。
もしかしたら、彼女は本当に天から使わされた天女なのかもしれない。本気でそう思うことすらある。
「ヒノエくん」
ふいに名前を呼ばれ、現実に引き戻される。
声の主のほうに視線を走らせると、が身体を起こして真っ直ぐにこちらを見ていた。
「なんだい、姫君?」
「ねえ、よかったらこっちに来て、少しお話しない?……その、もし、ヒノエくんが構わなければ」
飾り気のないまっさらな言葉が、柔らかく鼓膜を震わせる。
陽の光に照らされたの笑顔に、ヒノエは思わず見とれてしまった。そんな自分に内心驚きながらも、彼は何気ない風を装って答えた。
「オレなんかでよければ、喜んで」
「ヒノエくんって、今、いくつなの?」
の隣に腰を下ろした途端、待っていましたとばかりに質問が飛んできた。
「オレ?この前17になったばかりだよ」
「そうなんだ。じゃあ、わたしとあんまり変わらないんだね」
ヒノエくんのほうがわたしよりもずっとしっかりしていて、大人っぽいけれど。
へへ、と極まり悪そうに彼女が笑う。まだあどけなさが色濃く残った顔立ち。彼女が、剣を片手に怨霊を封印している戦女神であるなど、誰が想像できるだろう。
その点でいえば、自分も同じかもしれない、とヒノエはぼんやりと思う。天下の熊野水軍を率いる別当が、まさか「ヒノエ」と名乗る男であるなど、誰も夢にも思うまい。
「じゃあ、ヒノエくんの好きな食べ物は、なに?」
「……まるで子どもみたいなことを訊いてくるんだね、オレの姫君は」
だって、とは頬を膨らませて訴えた。
「わたし、ヒノエくんのこと、ほとんどなにも知らないんだもの。これを機にいろいろ知りたいと思っちゃ、いけない?」
「ほとんどなにも知らないって、姫君、オレたちは数日前に出逢ったばかりだよ?たった数日で相手についてわかることなんて、ほんの一握りしかないと思うけど」
「それは、そうだけれど……」
納得がいかない様子で、なおもは食い下がる。
「どんな小さなことでもいい、親しくなりたいひとについて知りたいって気持ちは……抑えられないよ」
ああ、もう、この神子姫は。
ぜんぶ計算ずくでやっていないんだったら、とんだ姫さまだ。
真摯なまなざしでこちらを射抜くに根負けし、ヒノエはそっとため息をついた。
「……わかったよ。のいいたいことはわかった。どんなことでもいい、訊いてくれ。その代わり、オレも同じくらいおまえのこと、質問攻めにするからな」
精一杯、意地の悪い顔をしたように思う。
それでもはうん、とひとつうなずくと、満足そうに微笑んだのだった。
それからしばらく、他愛のない会話が続いた。
好きな食べ物からはじまって、好きな色はなにか。好きな花はなにか。また、苦手なものはなにか――。取り留めのない、しかし心和む話題がとうとうと続く。
ひとつ、言葉が紡がれるたびに、ヒノエはに一歩近づく。ひとつ、笑みがこぼれるたびに、もヒノエのもとへと歩み寄る。少しずつ縮まる心の距離が、なんともいえないほど心地いい。
「、京は好き?」
これまでと同じ調子で、新たな質問を重ねる。
手を伸ばせば届くほどの至近距離にいる彼女。
普段のヒノエなら、迷わずの真っ直ぐな髪に、その柔らかそうな頬に触れていただろう。今も、そうしたい気持ちに変わりはない。しかし、なぜだかそれはためらわれた。
「うん、大好き」
屈託のない笑みを浮かべて、は即答した。
大好き。
ヒノエの中でなにかが動いたのは、この言葉を耳にした瞬間だった。我知らずのうちに口を開き、そして、……気がついたときには、もう言葉を発したあとだった。
「……、オレのこと好き?」
「うん、す――」
なんの前触れもなく打ち出された質問にすぐさま対処できず、そのままの流れで思わず答えてしまいそうになる。しかし、ヒノエの問いの持つ意味が一拍遅れて伝達されたとき、ははたと我に返った。
「ひ、ひ、ヒノっ、ヒノエくんっ」
「残念、もう一息だったのに」
顔を真っ赤にしてしどろもどろになっている神子を見て、にやり、と笑う。
やおらすっくと立ち上がると、ヒノエは茶目っ気たっぷりにウィンクをひとつして見せた。
「驚いた顔も可愛いね、」
――絶句。
言葉もない神子に微笑みを落とすと、ヒノエはくるりときびすを返してその場をあとにした。
「――手ごわいな」
梶原邸の前まで足を運ぶと、ヒノエはぽつりと一人ごちた。
さっきのの顔ったら。何度思い出しても笑みがこみ上げてくる。
「ちょっと、期待してたんだけどな」
すき、と。
直前に彼女がそういうのを聞いた途端に、聞きたくなった。
どうしたのかと思うくらいに、無性に聞きたかった。の口から聞きたかったのだ。たとえ、そこに気持ちが込められていなかったとしても。「すき」という、その言葉がほしかった。
「――まいったな」
そんな自分の心境を認めると、ヒノエはひっそりと苦笑した。
よりにもよって自分が、煌びやかな言葉を惜しみもなくばらまく自分が、言の葉ひとつに執着するなんて。
美しく飾り立てられた、中身のない言葉。
ヒノエはそれらを駆使するのを得意としていたし、見る目麗しい女性たちからそれらを送られるのを楽しんでいた。ひとつの遊戯(ゲーム)として。
空虚な言葉。耳にとって心地はよくとも、決して心には届かない言葉。
「それでもいいからほしい、なんて思うとはね」
どうやら自分は相当、あの神子姫さまにいかれているみたいだ――。
「……うそでもいいから」
唐突に目前に突きつけられた、心を占める彼女の割合の大きさに思わず舌を巻いた。まさか、自分がたったひとりの娘に心を奪われるなんて。
でも、もう、遅い。気づいてしまった以上、後戻りはできない。その事実を悔しいと思う反面、どこかくすぐったくもあった。
「偽りでもいい。聞かせてよ、」
館の中で頬を朱色に染めているであろう少女を想って、つぶやく。
――すきと、いって。