願わくば、どうか。
これ以上君が、傷つくことのないように。
からり、と乾いた音が響く。
ややあって、やわらかい光が室内を満たした。風が、ふうわりと春の優しい香りを運んでくる。
――ん?
ひとひらの桜の花びらが、手にした書状に落ちた。そこで、景時はようやく顔を上げる。
戸が、大きく開け放たれていた。その傍らに、ばつが悪そうな表情を浮かべた少女――望美がぽつんと立ち尽くしている。
「の、望美ちゃん?どうしたの?――ごめんね、気がつかなかった」
白と黒のみの世界が、一瞬にして色彩を取り戻す。読みかけの文書を手早く畳み、机の上に乗せると、入って、と客人を手招きする。軽く会釈をしてから、望美はゆっくりと部屋に足を踏み入れた。どこか居心地悪そうにしている少女に、楽にしてよと席を勧める。言われるまま、望美は景時の隣に腰を下ろした。
「ほんとにごめんね。オレ、一度なにかに集中すると、他のことに一切気が回らなくなっちゃうみたいでさ。そんなときは、引っぱたくなりなんなりしていいから。ほら、朔みたいに」
あにうえ、と怒ったときの妹の声真似をしてみせる。そこそこ似ていたのだろう、ぷっと望美が吹き出す。しかしそれも一瞬のことで、彼女はすぐさま自身を戒めるように首を横に振った。
「ううん、わたしのほうこそ、ごめんなさい。景時さん、お仕事していたのに」
察するに、望美は部屋の前で何度か自分の名を呼んでくれたのだろう。そして、室内にいるはずの自分がいつまで経っても応答しないことを訝り、戸に手をかけたに違いない。
さて、どうするべきかと逡巡している望美の姿を想像し、思わず笑みがこぼれそうになる。――いけない、いけない。
「だいじょうぶだいじょうぶ、急ぎの仕事じゃないから」
おずおずとこちらの様子を窺っている望美を安心させようと、景時は笑って手を振った。
「それに、そんなにかしこまらないで。望美ちゃんはもう我が家の一員のようなものなんだから、遠慮しなくたっていいんだよ。こんなところでよければ、いつでもおいで」
はい、とはにかんで微笑む望美を見て、景時はなんともいえない優しい気持ちになった。まるで、もう一人妹ができたような心地だった。
彼女と、彼女の幼なじみである有川譲、そして白龍という少年が屋敷に身を寄せるようになってから、二ヶ月あまり。異世界からやってきたという客人に、最初こそ途惑ったものの、景時は今や彼らを家族のように思っていた。
中でも望美は、白龍の神子――黒龍の神子である実妹・朔と対を成す存在でもあった。そして自分は、彼女を護る八葉であるという。妹と、そして自分とも縁(えにし)の糸で結ばれている望美を前にして、親近感を抱くなというほうが無理な話であった。
春風に鼻頭をくすぐられ、景時はふと我に返った。
「ところで、望美ちゃん。オレになにか用があったんじゃないの?」
「……あ、」
思い出した、と言わんばかりに望美がぱふ、と両の手を胸元で合わせる。
「そうでした。ええと、これから朔と白龍と一緒に、ちょっと加茂川の辺りまで散歩に行ってこようと思っているんです」
「加茂川に?三人だけで?」
「はい」
ほら、今日はとてもあたたかいから、とにこやかに続ける。
しかし景時の心中は穏やかではなかった。今の京の治安は、女子どもだけで歩かせても問題ないほどには整ってはいない。「保護者」という立場上、手放しで送り出すわけにはいかなかった。
「ちょっと、危ないんじゃないかな。ここのところ物騒だから、八葉の誰かを連れて行ったほうがいいと思うんだけれど。九郎……は神泉苑の儀式に参加しているから無理だとして、譲くんとか、弁慶とか」
「譲くんは、朝からどこかに出かました。弁慶さんは今日、まだ顔を出していないみたいです。今、八葉でお屋敷にいるのは、景時さんだけですね」
あ、でもだいじょうぶです、と望美は慌てて継ぎ足した。
「わたし、剣には自信がありますから。朔と白龍は、わたしがちゃんと護ります!だから、」
安心してください、と少女は朗らかに笑った。
だが景時は納得がいかなかった。彼女の言葉に、胸中で不服を唱える。
――それじゃあ、君は一体、誰が護るの?
そんな問いが脳裏に浮かぶや否や、景時は口を開いていた。
「だったら、オレが一緒に行くよ」
どこかぶっきらぼうに響いた自身の声に、内心驚きを隠せなかった。聞きなれた自分の声が、ふいに別の音を帯びたような感覚。見れば、望美も大きな瞳を丸くしてこちらに視線を注いでいる。
「――だって八葉は、龍神の神子を護るためにいるんだろう?」
胸に芽生えた不可解な気持ちを拭うかのように、すぐさま普段と変わらぬ調子で言い繕(つくろ)う。
「でも景時さん、お仕事が」
「いいっていいって。それに、護衛も立派な仕事でしょ?たまにはいいところを見せないと、朔にも怒られちゃうからね」
お役に立てさせてよ、と、仕上げに目弾きをひとつ。そのしぐさを合図に、望美もふっと破顔する。
「……それじゃあ、景時さん。同行をお願いできますか?」
「御意〜!」
神子の申し出に、鎌倉の戦奉行・梶原平三景時は茶目っ気たっぷりに応答したのだった。
加茂川に着くやいなや、望美も朔も白龍も、皆一斉にはしゃぎはじめた。日向ぼっこでもしているからと、少女らの輪に加わることを辞退した景時は、手ごろな樹の幹に身体を預け、遠目から彼女たちを見守ることに徹した。
なにもかもが穏やかな、春の昼下がりだった。
川のほとり一体は、やわらかな芝生に覆われている。名も知らぬ白い花が、そこかしこに姿を現していた。厳しく冷たい冬はもう、見る影もない。世界中が、喜びに包まれていた。
最初は鬼ごっこやかくれんぼに興じていた望美たちは、いつの間にやら花摘みに精を出していた。どうやら、白龍に花飾りを拵(こしら)えてやるつもりらしい。望美と朔が二人、小さな白龍に手ほどきをしていた。
――花飾り、か。
するすると花を編みこんでいく朔の指先に目をやると、遠い昔の情景がぼんやりと思い起こされた。
あれは、いつの日のことだったか。
目を閉じて、在りし日々を想う。さんさんと注ぐ陽光が心地よかった。
花飾り。昔、幼い朔にせがまれて、懸命に編んだものだった。
発明をはじめとし、なにかを作り出すことはお手のものだったはずなのに、花飾りは勝手が違った。なかなかうまくいかなくて、何度も失敗した。仮に完成したとしても、ついに不恰好の域をでることはなかった。
それでも。たとえどんなに滑稽な代物だったとしても、朔は一度も不平をこぼさなかった。あにうえありがとう、たいせつにしますと、舌足らずな声で言い、無邪気に笑う年端もゆかぬ妹を見るたびに、切々とこみ上げてくるものがあった。
――この子は、オレが護らなくちゃいけない。なにを引き換えにしたとしても。
子どもながらに、忍び寄る戦の足音をすでに捉えていた。
朔がまだ、五つになるかならないかの齢だったころのはずだ。さすれば、10年以上も前の話か。自分が、銃を手にする前のこと。――この両の手を、人の血で染める前のこと。
手套をはめた手のひらを、軽く握りしめる。
あの日、朔に花飾りを作ってやった手は、いつの間にか変わり果てていた。
修羅と化し、はじめて人を殺めたときに浴びた血の生暖かい感触が、今もなお消えない。どれだけ入念に禊(みそぎ)を行っても、武器を刀から銃に切り替えても、拭い去ることが一向にかなわない。鮮血の幻が霧散することはなかった。見えなくとも、自分の手には血がたっぷりと染み込んでいた。
妹に、愛する人々に触れることをためらうようになるまでに、さほど時間はかからなかった。そんな資格は、自分にはもうない。そう思えてならなかった。
屠られたものの、怨嗟の証。それが、己の決意の代償なのだと。重ねた罪の分だけ、穢れが刻まれていく。血塗られた両手は、まさに烙印そのものだった。
それでも構わなかった。名誉もなにもいらない。護るべきものを護り通すことができれば、自分はどんな汚れ役も甘んじて受け入れる。傍(はた)から見れば、それがどんなに愚かなことだったとしても。
三人の笑い声が、微かに鼓膜をふるわせる。それだけで、すうっと心が和む。
まぶたの裏に、望美の笑顔が浮かび上がった。
――願わくばどうか。
望美が剣の鍛錬を一日たりとも欠かせていないことを、知らない景時ではなかった。相当腕の立つ娘だ。九郎の前で秘技・花断ちを披露してみせたのも記憶に新しい。だが――なによりも景時を驚かせたのは、剣を構えたときの真摯なまなざしだった。あれは、真剣を振るうことの重さを熟知しているものの瞳(め)。そこには微塵の迷いもにじんでいない。護るべきもののために、どんなことをも厭わない決意が、あった。
朔も白龍も、自分が護ると彼女は言った。
では、誰が彼女を護ると言うのか――。
「……さん、景時さん」
刹那、現実へと呼び戻された。
はっと眼を開けると、望美がこちらの顔を覗き込んでいた。せっかく気持ちよさそうにしていたのに起こしてごめんなさい、と頭を下げる。
「望美ちゃん?……どうかした?」
「ううん、そういうわけじゃないんですけれど、……ただ、もう陽が傾きかけているから、そろそろおうちに帰ったほうがいいかなって」
言われて顔を上げると、空はほんのりと茜色を帯びはじめていた。
まったく気がつかなかった。どうやら、相当長い間物思いにふけっていたらしい。
九郎と弁慶は今晩、京屋敷を訪れるだろうか。――いや、その前に譲だ。もう、すでに戻っているかもしれない。
「そうだね。あんまり遅いと、譲くんが待ちぼうけを食っちゃうからね。――朔と白龍は?」
「朔はまだ、白龍にあげる花飾りを作っているんです。あとちょっとで終わるから、もうしばらく待ってって」
「そっか」
立ち上がって、目前に広がる芝生に視線を走らせる。少し離れたところに、朔と白龍の姿があった。
「はは、すっかり白龍のお姉さんみたいだね。ずっと妹か弟をほしがっていたから、可愛くて仕方がないんだろうねー」
「……あの、」
景時の科白を遮るように、望美が口を挟む。うん?と振り返った途端、首になにかがかけられた。――真っ白な、花飾り。
一瞬、なにが起こったのか把握できなかった。
「え……っ」
「朔に教わって、作ってみました。朔に花飾りの作りかたを教えたのって、景時さんなんですよね?すごいです」
あんまり上手じゃないですけれど、とはにかんだように笑う。
その瞳に、かつての自分を見たような錯覚を覚えた。
この花飾りを編んだ手で、彼女は剣を振るう。いつしか出陣し、人を斬る。
そして、彼女のこの穢れなき手は、永遠に失われる――そう思うだけでいたたまれなくなった。
「ありがとう、望美ちゃん」
護りたいと、痛切に願った。
――君がこれ以上、傷つくことのないように。
彼女が護るべきもののために戦うと、その手を汚すというのならば、自分が彼女を護る盾となろう。そう思えば、彼女の八葉に選ばれた意味も見出せる気がした。
兄上、望美、と妹の声がする。声のしたほうに顔を向けると、朔が花飾りを手にした白龍を伴って戻ってきた。
「……それじゃあ、そろそろ帰ろうか?」
景時の言葉に、全員が頷く。
三人の晴れ晴れとした表情を見届けると、景時は人知れず己を彩る花飾りに誓いを立てた。
この子たちが笑顔でいられるなら、どんなことでもしてみせる。
だから――願わくば、どうか。
どうかこの子たちが、これ以上傷つくことのないように。
兄上、早く、と先を行く朔が呼ぶ。
ごめんごめん、今行くよ、と短く答えてから、景時は妹らの後を追った。