――行かなくちゃ。
荒れ狂う風に長い髪をなびかせ、彼女は笑った。
――わたしが、護らなくちゃ。この世界も、……譲くんも。
ああ、どうして。こんな事態だというのに、どうしてあなたはそんなにも綺麗に笑えるのか。
帰ってこれる保証など、どこにもないのに。
救われた世界に、あなたはいないかもしれないのに。
行かないで。
悲痛な叫びは、だけど声にはならない。とっさに差し出した手も、空しく宙を切っただけだった。
――行かなくちゃ。
聞き分けのない子どもを諭す母のように、彼女は再度優しくささやいた。
「だって、……大好きだから」
狂おしいほどに希(こいねが)っていた言葉。
今、この状況で耳にするには、あまりにも哀しい――。
彼女の姿が虚空に掻き消えた瞬間、……世界中の音が止んだ気が、した。
あれは、いつの日のことだったか。
もう、それさえもおぼろげにしか思い出せない。
あなたのいない世界に、意味などないから。
あなたに捕らわれたまま、時間(とき)は過ぎゆく。
――壇ノ浦の決戦から半年。
その晩、あの日忽然と姿を消した望美を伴って譲が戻ってきたとき、京屋敷はこの上ない喜びに満ちあふれた。
感極まった景時などは至急九郎や弁慶に連絡を差し向けようとしたが、はやる彼を譲はやんわりと押しとどめた。まずは先輩をゆっくり休ませてあげたい、と。半年の空白期(ブランク)がある彼女をいたずらに疲れさせたりしたくはなかった。
それもそうだと納得した景時に礼を言うと、譲はすぐさま望美を部屋へと連れて行った。
「……ただいま」
なんにも変わっていないね。部屋に一歩足を踏み入れるなり、望美は誰にともなくぽつりとつぶやいた。
「なんだか不思議。今日みんなと一緒に帰ってきた、そんな気がするのに、……あれからもう半年も経っちゃっているんだ――」
わたしだけ、時間においてけぼりにされたみたい。淡々と胸のうちを語る望美の横顔を、薄闇に灯るろうそくの火が柔らかく照らし出す。
たかが半年、されど半年。望美は今、自分の中に新たに生まれた「余白」を持て余しているに違いなかった。心、ここにあらず。ぼんやりとたたずむ彼女に胸を痛めた譲は、すぐさま部屋を立ち去るつもりでいた。
今は、そっとしておいたほうがいいのかもしれない。ゆっくり休ませたほうがいいのかもしれない。そう、思っていたのだ――望美が、ああでも、と二の句を紡いだりするまでは。
あのね、と少し恥ずかしそうに彼女は言葉を続けた。
「譲くんが無事で、本当によかった。もう、十分。それだけがわたし、心残りだったから――」
邪気のかけらもない微笑に、胸のうちが熱く騒ぎだす。
――人の気も知らないで。
「……先輩」
「うん?」
いてもたってもいられなくなって、譲は彼女をそっと自分のもとへと引き寄せた。
細身の身体が、抵抗なくすっぽりと腕の中に納まる。
「先輩」
「ゆ、ゆずるく」
「先輩、……先輩、先輩……」
何度も何度も、繰り返し彼女の名を呼ぶ。
その存在を、今一度確かめようとするかのように。
夢にまで見た彼女が、今、自分の手の届くところにいる。
やっと、取り戻すことがかなったのだ。
もう決して、離したりなんかしない――。
「――気が、狂いそうだった」
望美の耳元で、譲は切々と声を絞った。
「あなたがもうどこにもいない、そう考えただけで壊れてしまいそうだった――」
恐る恐る、望美の頬に触れる。指先が震えているのが、自分でもわかった。
幾度、こうしたいと願ったかしれない。想っているだけでよかったのに。彼女が幸せであればそれでいい、そう思っていたのに。
望美の双眸に映った自分が見える。
いつから、……いつから、こんなにもあなたを渇望するようになったのか――。
「あんな想いをするのは、もうたくさんだ」
「……うん」
ごめんなさい、とか細い声が優しく鼓膜をくすぐる。
「約束してください。二度とあんな真似はしないと」
「うん。うん……」
その切ない声音が。その濡れた瞳が。
譲の理性を容赦なく奪いつくす。
もう、止まらない――。
「……もう一度、聞かせて」
「え?」
はじまりのことばを。今一度腕に力を込めて、耳元で熱っぽくささやく。
脳裏に甦るのは、突風の中で微笑(わら)った彼女。あの日を境に止まった時間が、今、静かに流れ出そうとしている。
「ゆずるく、」
「あなたが消える間際に言ったことばを、もう一度……聞かせて」
――のぞみ。
開きかけた望美の唇を、譲は己のそれでやわらかくふさいだ。
揺らめく2つの影が、音もなく折り重なる。
ゆらゆら、ゆらゆらと――。
あなたを失くした瞬間、世界が閉ざされた。
あなたは光であり、希望。
あなたは俺のすべてだと、完膚なきまでに思い知らされた――。
ああ、こんなにも。
どうしようもないまでに、俺はあなたに――溺れる。