看病の際に必要なことを一通り聞いてから、弁慶を九郎邸へと送り出した。手順を確認するのに大分手間取ってしまったので、九郎は今頃お冠かもしれない。
今、敦盛は寝込んだと二人、弁慶の部屋にいる。なんとも不思議な状況だった。
眠らず、彼女のそばにいるのは苦ではない。怨霊として甦ってからというものの、敦盛は睡眠を必要としなくなっていた。形式的には眠りにつくが、眠らなかったところで支障も特にない。
苦しいのか、は始終喘いでいた。時折、不可解なうわ言を口にする。額には、玉のような汗が浮かんでいた。
大事はないといっても、熱にうなされる姿は見るに忍びない。額に貼りついた髪を払い、手ぬぐいで汗を拭うと、敦盛は嘆息した。彼女の苦しみを引き受けることができたなら、と切に思う。
「……神子」
神子は聖なる存在で、誰よりも強い。ずっと、そう思っていた――今日、この日までは。
目の前に横たわる少女はあまりにもか弱く、大気に溶けてしまいそうなほど儚かった。白龍の神子、源氏の神子姫――その細い肩に、彼女はどれだけのものを背負っていたのだろう。
京に来るまで戦に参加したことも、剣を振るったこともないといつか言っていた。戦場に出ることは、どれだけ恐ろしかったことだろう。それでも彼女は、毅然と立ち向かっていく。役目を果たさんと。皆の期待に答えんと。倒れてしまうほどに気を張りつめて、彼女は戦っていたのだ。現実と、自分と……。
「すまない」
もっと、早くに気づくべきだった。労わるべきだった。深く考えもせずに彼女を神格化して、彼女の強さに甘えていた自分を敦盛は恥じた。
こんなにも愛しいのに。
愛したひとさえ、自分は護ることができない――。
敦盛は、軽く頭(こうべ)を振った。
今は、神子の看病に専念しなければならない。そう自分に言い聞かせてから、敦盛
は弁慶から託(ことづか)った事柄を復唱した。
冷えは厳禁。汗をこまめに拭き、必要とあらば着物を変える。小康状態を保てるようになったら、弁慶があらかじめ用意した薬を与える。以上。
汗をこまめに拭く、までは問題はなかった。
着物を変える、からは相当な困難が伴った。極力彼女の身体に目をやらないように、あまつさえ触れないように心がけたため、それなりの時間を費やすことになった。すまない神子、と何度も何度も念じながら、弁慶が用意した病人用の夜着に着替えさせる。神子が昏々と眠っていたのがせめてもの救いだった。不慮の事態であるとはいえ、この様を覚えていたりでもしたら、もはや彼女に合わせる顔がない。
そして今、最大の難関が敦盛の前に立ちはだかっていた。薬の服用である。そろそろ、弁慶に手渡された薬を与える頃合だった。
熱はまだ下がってはいなかったが、大分落ち着きを取り戻したようで、はすうすうと寝息を立てて眠っている。安らかな寝顔を見ると、眠りを妨げるのが途端に可哀相になる。
「神子、……神子」
申し訳なく思いつつも、背に腹は変えられない。すまない、と一言わびてから、敦盛は恐る恐るを揺り起こした。ううん、と細くうめいてから、は微かに目を開けた。
「あつ、もり……さん……?」
「起きられるか?すまないが、もし起きられるようなら、薬を飲んでほしい」
はしばらく視線を彷徨わせていたが、やがて再び目を閉じた。ほどなくして、寝息が聞こえはじめる。
「まいったな……」
起きて、自力で薬を飲むだけの体力を持ち合わせていない病人に、どうやって薬を与えればいいのか。弁慶は、そこまで教えてはくれなかった。
寝たままでは、茶碗をあてがうわけにもいかない。手で水を掬い、飲ませてやるのにも無理がある。どうしたものか……。
万策尽きて、敦盛は静かにの寝顔を眺めた。
月明かりを受けた彼女は、天女と見まごうほどに美しかった。
「……かぐや、姫」
ぽつりと、独りごちる。
幼少のころ、兄が語ってくれた竹取物語を思い出す。
月の姫君、かぐや姫。竹から生まれ、いつしか故郷に還る姫君。誰もが欲し、だが、誰のものにもならなかった美姫。
神子はまるでかぐや姫のようだ、と、敦盛は思う。いつかは、自分と違う世界へと還る姫。どんなにほしくても、手に入らないひと。
『まだるっこしいなあ』
当時、一緒にお伽話に耳を傾けていたヒノエは言った。
『オレだったら、絶対に姫を還さない。絶対に絶対に。月からの使者なんか追い返してやる』
当時はあまり賛同できなかったヒノエの言い分も、今では痛いほどよくわかる。
還らないでほしい。自分のそばにいてほしい。叶わない願いであることは重々承知している。そんな資格がないことさえも。
ただ、そばにいることさえできればと、思っていた。それでも、時折切なる願望がちらりと顔をのぞかせる。
――あなたが、ほしい。
「ん……」
そのとき、が小さく身じろぎした。
「……り、……さ……」
それは、とても微かな声で。
「あつもり、さん……」
二度目は、はっきりと聞こえるように。
の手が、そろそろと敦盛の手のほうに伸びた。ぎゅっと、掴む。決して離すまいと言わんばかりに、かたく握り締める。
「……ないで」
「え?」
「敦盛さん、……どこにもいっちゃ……いや」
「神子?」
「いなく……ならない、で。ずうっと一緒に、……いて――」
寝言だろうか。熱に浮かされて口走ったことばなのだろうか。どちらにしても、彼女のことばは敦盛の理性を揺さぶるには十分だった。
ああ、と敦盛はうめいた。
どうしたら、止められるのだろう。どうして止められるだろう、この想いを。
こんなにも愛しいのに。
敦盛は弁慶の処方した薬を空いているほうの手で取ると、それをさらさらと口の中に落とした。続けて、水を一口含む。誤って飲んでしまわぬように注意を払いながら、敦盛はの唇をそっと押し開いた。
あなたをほしいという願いは、届かない。ならば、せめて。たった一度だけ。
この罪を犯すことを、赦してほしい。
それは、永遠のような一瞬。
敦盛はゆっくりと、の唇に自分のそれを重ねた。あたたかい。慎重に薬を彼女の口に移してから、名残惜しそうに唇を離す。こくん、と微かな音を残して彼女は薬を飲み込んだ。
次の瞬間、ふっと、が目を開けた。
一瞬、自分のしたことに感づいたのではないかと身を硬くしたが、どうもそうではないらしい。彼女はしばらく敦盛を穴の開くほど見つめたのち、ほっと、顔を緩ませた。
「……敦盛さん。よかった」
つながれた手に、力がこもる。
「神子?」
「敦盛さんが、どこかへ行っちゃう夢を見たの」
にっこりと、が笑う。熱のせいか、頬が薄紅色に染まっていた。
「でも、よかった。敦盛さん、いる」
「私はここにいる。ずっと、あなたのそばにいる。だから、……安心して眠るといい」
少女のことばに泣きそうになりながら、敦盛は言う。は微笑みを返すと、今一度眠りについた。
ああ、と敦盛は思う。
この想いをどうして消し去ることができようか。
「神子」
規則正しく寝息を立てているに向かって、囁く。
「この想いを、あなたに打ち明ける日は来ないと思う。だが、……せめて」
これ以上、なにも望みはしないから。
どうか、心の中であなたを想い続けることを赦してほしい――。
――敦盛さんの夢を、見た気がする。
目覚めたとき、は自分の部屋ではないところにいた。
室内の様子から弁慶の部屋であることは伺えたが、なぜここで眠っていたのかがわからない。
そうか、わたし……昨日、お水を飲みに部屋を出て。
ばらばらになった記憶の断片を、パズルピースのようにひとつひとつ、合わせていく。
深夜、廊下で弁慶と敦盛と顔を合わせたことは覚えている。少し話をして、それから、目の前が暗くなって――それから?
なにが起こったのか、さっぱりわからないや……でも――。
なおも昨夜の出来事について考えようとしたとき、すっと襖が開いた。敦盛が、茶碗を乗せたお盆を持って立っていた。
「ああ、神子。起きていたのか」
「敦盛さん」
「具合は、もういいのか?」
そう言って、部屋の真ん中にある机にお茶を置く。
「敦盛さん、わたし……」
「過労だそうだ。疲れがたまっていたのだろうと、弁慶殿が言っていた」
「そう、ですか」
「九郎殿たちは早朝に京を出た。もう2、3日大事を取ってから、私が神子を福原まで連れて行くことになっている」
敦盛が淡々と状況を説明する。
けれど、彼の言葉はの耳をするすると素通りしていくばかり。の心に引っかかっていたのは、もっと別のことだった。
記憶が途切れているのは、倒れたから。
この部屋にいるのは、きっと、弁慶さんが連れてきてくれたから。
だけど――。
「敦盛さん」
意を決して、尋ねてみる。
ただの思い違いかもしれない。でも、妙な確信もあった。もしかしたら。もしかしたら……。
「どうした?」
「敦盛さん、ひょっとして昨晩、この部屋にいたりとか……しませんでしたか」
敦盛の夢を見た気がする。
とてもリアルな――夢か現かわからない、そんな夢。
「いや」
柔らかい微笑を浮かべて、敦盛は首を左右に振った。
「私はあれから自分の部屋に戻った。弁慶殿は神子を介抱してから出かけられたし、それからは誰もこの部屋に立ち入っていないはずだ」
「そう……ですか」
あれはやはり、ただの夢だったのだろうか。
敦盛が、自分のそばにいた夢。ぎゅっと、手を握ってくれていた。それから――。
それから先を想像して、は気恥ずかしくなった。どうして、ひょっとしたら、などと思ったのだろう。敦盛が自分にキスをしたなど、現実にあるわけがないのに。
……でも。
「そうだ神子、朝餉を作ろうと思うのだが、食欲はあるか?」
「――え、敦盛さんの手料理ですか?うわあ、食べたい!食べたいです!」
それでも、夢なら夢でもいい、と思った。
とてもとても優しい、素敵な夢だったのだから。
……この恋は、みそか。