みそか(1)


熊野を発ち、京への帰路についたときから、神子の顔色が少々すぐれないように感じていた。

だが軽やかに談笑しつつ、険しい道も弱音ひとつ吐くことなく歩く彼女の気丈な姿を見ると、その心配は杞憂であったと敦盛は思いなおした。気のせいだったのだろう。

だいじょうぶだ。
神子は、強い。私が思っているよりもずっと。

勝利をもたらす、美しき戦女神。
源氏が誇る果敢な姫将軍・に、誰もが絶大な信頼を寄せていた。敦盛をはじめとする、他の八葉とて例外ではない。

だから、時折忘れてしまう。
神子は神子である前に、ひとりの少女であることを。









京屋敷の縁側で、敦盛は眠れぬ夜を過ごしていた。

平家と、和議を結ぶことになった。

九郎が敦盛にそう告げたのは、もう一週間も前のことだ。明日、全員で和議が行われる福原へと経つことになっている。

和議が無事成立すれば、もう一族に刃を向ける必要がなくなる。
……兄とも、戦わずにすむ。

永遠に続くかと思われた源平の争いに、ようやく終止符が打たれる。
喜ばしいと思う反面、まるで夢物語を聞かされたような気分でもあった。実感がわく気配は、一向にない。胸の奥が始終ざわざわとしていて、休まることがない。

明日は早い。明朝に備えて十分に休息を取っておかなければならないのだが、どうにも落ち着かない。寝つくどころか頭は冴えるばかりで、どうしようもない。
いたたまれなくなって、敦盛は寝所からそうっと抜け出した。しばらく夜風に当たっていれば、気持ちも静まるだろう。

そうして縁側に腰を下ろしてから、早くも一刻ほど経とうとしている。

天上を仰ぐと、ぽっかりとした月が雲の合間にたゆたっていた。
見事な朧月夜だな、と、ぽつりと独りごちる。兄上も今、同じ月を眺めたりしているのだろうか。

「……敦盛くん?」

名を呼ばれ、振り返ると、そこに弁慶が立っていた。

「弁慶殿」
「ああ、やっぱり君でしたか。どうしたんですか、こんな時分に?」

明日は、強行軍になります。ちゃんと身体を休めておかないと、つらいですよ。
そう言うと、弁慶は軽く敦盛の肩を叩いた。

「弁慶殿こそ、夜分遅くにどちらへ?」
「九郎に呼ばれているんです。明日の打ち合わせのことで」

軍師冥利につきますね、と弁慶は茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

このひとは変わらない、と敦盛はしみじみ思う。他人を気遣い、自分は絶対に不平をこぼさない。己の心情を巧妙に隠し、一人でなんでもこなそうとする。このひとは、変わらない。今も昔も。

「眠れませんか」

昔から、弁慶はなんでもお見通しだった。彼の目に、曇りはない。たとえ今、首を横に振ったとしても、この策士を欺くことなどできそうにもない。敦盛は素直に首肯した。

「……はい」
「無理もない。和議が成れば、平家は怨霊を生み出す理由を失う。そして、君が一族と敵対する必要もなくなる――すべてが、この和議にかかっている」

弁慶の口調はどこまでも穏やかだったが、目は、もう笑ってはいなかった。弁慶は弁慶なりに、この和議に想いを託しているのだろう。

「弁慶殿、……」

和議は、無事結ばれるのだろうか。

そう言いかけて、口をつぐむ。
今、不安を言葉にしてしまえば、それが現実になってしまうような気がしてならなかった。

「だいじょうぶですよ」

敦盛の心のうちを読み取ったかのように、弁慶が言った。

「鎌倉殿が和議を申し入れ、平家がそれを受け入れた。――信じましょう、経正殿を。平和を願う、平家の方々を」
「……そう、ですね」

源氏方が和議を提案し、平家がそれに同意する。
しごく明快なことだ。疑心を差し挟む余地など、どこにもないはずだ。

――それなのに。

敦盛は、小さくため息をついた。どうも自分は、少々心配性のきらいがある。緊張のあまり、神経が過敏になっているのだろう。今はただ、信じるしかない。平家を、そして源氏を。

「……では、僕はそろそろ行きます。九郎が、きっと首を長くして待っている」

弁慶に声をかけられ、敦盛は我に返った。

「はい。心配をおかけしてすみません、弁慶殿」
「気にしないでください。君の気持ちは、よくわかりますから」

なるべく早く寝てくださいね、と言い残すと、弁慶は敦盛の横を通り過ぎて行った。風のように。
「ありがとうございます」とも、「お気をつけて」とも言いそびれて、なんとはなしに、敦盛は遠ざかる弁慶の背中を見送る。大きな背中。子どものころから憧れていたそれ。
漆黒の外套が闇に溶け込む直前、弁慶の足が止まった。目の前に続く廊下の先を、じっと見つめている。

「弁慶殿?どうか――」

しましたか、と言い終える前に、敦盛は暗がりに眼をやった。弁慶の手前、ひっそりとたたずむ人影を認めた瞬間、あ、と思わず声が漏れる。

「神子」
さん」

敦盛と弁慶の声が、綺麗に調和する。

「あ、……弁慶さん、敦盛さん。こんばんは」

少女――は、一拍置いてから返答した。ゆっくりと、敦盛たちに向かって歩みを進める。
身に纏った白い夜着が、月明かりを受けてぼんやりと浮かび上がる。その様はどこか頼りなく、彼女をいつも以上にあどけなく見せている。

「神子、どうかしたのか」

普段とは様子が少し違う彼女に、敦盛は胸騒ぎを覚えた。

「ちょっとのどが渇いて……お水をもらおうかと思ったんです」
「そうか」

神子の言葉に安堵する。またもや、自分の取り越し苦労に過ぎなかった。
どうかしている。たとえ一瞬でも、神子を儚いと感じるなど。

「敦盛さんと、弁慶さんは……?」

わずかばかりかすれた声で、が尋ねる。

「僕は、明日のことでこれから九郎のもとへと行かなければなりません」
「私は――」

敦盛が口を開こうとしたのと、の脚がかくん、と力なく折れたのはほぼ同時のことだった。

「神子!」

躊躇している暇はなかった。はじかれたように、虚空に手を伸ばす。
崩れ落ちそうになるをしっかりと抱きとめる。衣服を通してもわかるほど、彼女の身体は熱かった。

「神子、だいじょうぶか、神子!」
「……ひどい熱だ」

の額に手を添えた弁慶が、短くうめいた。
その様子にただならぬものを感じ、戦慄が全身を駆け巡る。

「弁慶殿……!」
「彼女を僕の部屋に連れて行きます。手伝ってください、敦盛くん」

有無を言わせない口調だった。敦盛はうなずくと、手早く弁慶の出す指示に従った。









を自室へと運び、寝床に横たわらせると、弁慶は手際よく診察をはじめた。
茶碗一杯の水を持ってくるよう頼まれた敦盛が戻ると、もうあらかたの処置は施されていたようだった。相変わらず、その手腕には舌を巻く。

「……過労、ですね」

敦盛が神子の容態を尋ねる前に、弁慶が静かに告げた。

「熊野へ行って戻ってきてからも、休む間もなく怨霊の封印に当たっていましたからね。疲れがたまったのでしょう。だいじょうぶ、大事ありません。あたたかくしてゆっくり休めば、じきに回復します」
「……よかった」

敦盛は心の底からほっとした。

「この分だと、明日、福原に向かうのは無理ですね。大事をとって、2、3日休ませたほうがいいでしょう」
「出発を遅らせるのですか?」

弁慶はゆっくりと首を振った。

「九郎は、鎌倉殿の名代として招かれていますからね。和議がはじまるまで時間に余裕はありますが、福原入りがぎりぎりとなってしまうようではいけない」
「では……」
さんには、あとから福原に来てもらうことになるでしょうね」

弁慶は今一度の額に手のひらをあてがうと、敦盛のほうへと向き直った。

「敦盛くん、申し訳ないんですが、お願いがあります」
「弁慶殿?」
「今晩だけ、さんはつきっきりの看病を必要とするでしょう。本来なら、それは僕の役目ですが……僕は、源氏の軍師として九郎のもとへ行かなければなりません。そこで、」

弁慶は一旦言葉を切ると、じっと敦盛の瞳を覗き込む。

「君に、さんの看病をお願いしたいのです」

敦盛は一瞬、自らの耳を疑った。
私が、神子の、看病を?

「わ、……私が、ですか」
「はい。そしてさんとともに京に残り、彼女の回復を待って、ともに福原に来てください。……敦盛くん、福原までの道のりは、わかりますよね?」

はい、と反射的に頷いてから、敦盛は自分の迂闊さを呪った。これでは弁慶の思う壺である。あれよあれよという間に、彼の張り巡らせた策にはまってしまっている。

「なら、安心ですね。和議には十分間に合うと思います。徹夜を強いることになりますが、明日、明後日はゆっくりと休めますから」
「し、しかし私は、その、適任ではないように……思う」

弁慶殿は、私の気持ちを知った上で、このようなことをおっしゃるのだろうか。

つい先日、敦盛はへの気持ちを自覚したばかりだった。
京で源氏の兵に追われたとき、なにも言わずに匿ってくれた。三草山では、九郎に反発してまで自分を護ってくれた。穢れている、と警告したにも関わらず、迷うことなく敦盛の手を取った彼女。龍神の力で、敦盛のうちを蝕む妖気を静めた彼女。敦盛の笛を聴きたい、と無邪気に笑った彼女――。

今や、は敦盛にとってなくてはならない存在となりつつあった。
しかし自分は怨霊で、どんなに願ったとしても彼女と結ばれることは叶わない。これ以上想いを募らせる前に、止めなければならない――そう思っていた矢先の、弁慶の申し出である。

「君しかいないんです」

間髪いれずに返ってきた弁慶の答えに、どきり、と心臓が跳ね上がる。

「こう言ってはなんですが、もう夜も遅いし、あまり事を大きくしたくはない」

それに、と弁慶は続ける。

「君なら、さんと二人きりにしておいても安心ですし」
「………」

神子への恋心が露呈したわけではなかったのには安堵したが、こうも絶対的な信頼を寄せられているとなると、少し複雑なものがある。

――弁慶殿、私とて男だ。

そう言いたいのは山々だったが、敦盛はあえて言葉を飲み込み、こくりとひとつ頷いた。

「……わかりました。至らないところもあるとは思いますが、善処します」
「ありがとうございます。では、九郎にもそのように伝えておきますね」

にこり、と弁慶が人当たりのいい笑みを浮かべる。
その笑顔を見てふいに、ヒノエが昔、弁慶を「食えないやつ」と称していたのを思い出す。10年余りの時を経て、確かにそうかもしれないと、敦盛は今更ながら納得した。



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