波の音が、きこえる。
心地いい音色にくすぐられ、はうっすらと目を開いた。
正面に、濃紺の水面をふるわせる海。足元には細やかな白い砂。
厳島神社の舞台からここ、御笠の浜に出るまでずっと気を張り詰めていた。わずかばかりの休息と称してこの白浜に腰を下ろしたのは、日が暮れ始めた時分のこと。すでに、夜の帳は下りていた。
ああ、そうか……わたし。
どうやら少し、まどろんでいたらしい。油断するとすぐにでもくっついてしまいそうな両まぶたを軽くこすって、そっと頭上を見上げる。そこに広がるは、満天の星空。小さな星たちが、静かに瞬いている。
……綺麗。
まがいものではない、本物の星空を見るのは何年ぶりだろう。
子どものころから、星を見るのが好きだった。幼なじみの将臣や譲と、何度も近くのプラネタリウムへと足を運んだ。星座の名前も位置も、がんばって覚えた。聞き入れてもらうことは遂になかったが、天体望遠鏡がほしいと両親にねだったこともある。
将臣。譲。両親。一年ほど前まで、自分が暮らしていた世界。あるべくものとしてあった、日々。それらすべてが、今は、遥か遠い記憶のように感じられた。
――日常と引き換えに手にしたもの。
視線をもとに戻す。
果てのない海。どこまでも続く、白い砂浜。やわらかな静寂に包まれた、世界。これらを脅かす存在は、今やもう、いない。
これは夢なんだ、と誰かに言われたとしても、きっと疑わない。まるで幻想。まるで、この世のものとは思えない情景。
誰しもが、待ち望んでいたもの。
……あのひとが、心の底から願って止まなかったもの。
「……っ」
ふと、激しい不安に襲われた。無意識のうちに、両肩をぎゅっと抱く。
夢じゃ、ないだろうか。
「敦盛さん?」
いてもたってもいられず、は辺りを見回した。
海も、砂も、そこに在る。波が寄せては返す音が、汐の匂いが、押し寄せてくる。なにも変わっていない。ただ、あのひとだけがいない。
……いやだ。そんなのは、いやだよ。
もう、あのような想いは、二度としたくはなかった。あの、身を引き裂かれるような、切ない痛み。片翼を、半身を奪われてしまったかのような喪失感。
お願い、……夢で、終わらせないで。あのひとを、連れていかないで。
「敦盛さん……」
半ば涙ぐみながら、視線をめぐらす。海、砂、森。薄闇のヴェールが世界を包んでいるせいか、ぼんやりと浮かび上がるシルエットを辛うじて捉えるだけでも精一杯だ。それが一層、少女の不安を掻き立てる。
「敦盛さん、敦盛さん、……あつ、もり、さん……」
敦盛。呪文のように、その名前を唱える。
そうでもしないと、我を失ってしまいそうだった。
そのとき。
「……神子?」
「――っ」
優しい声が、降ってきた。
ぜんまいの切れた機械じかけの人形のように、の身体が一瞬、硬直する。
忘れるはずがない、この声。あのひとがいなくなってから、何度頭の中で反芻したことだろう。何度、聞きたいと望んだことだろう……。
今、きこえる。あの声が、きこえる。
「神子、どうした?怖い夢でも見たのか」
ゆっくりと、は声の主と向き直った。
柔和な光をたたえた瞳。きちんと結い上げられた、艶やかな髪。
心配そうに、自分を見つめている公達――名を、平敦盛。
「……敦盛、さん」
夢じゃない。敦盛さん。
ぼうっと立ち尽くすの姿にただならぬものを感じ取ったのか、青年――敦盛は、血相を変えて彼女のそばへと駆け寄った。
「すまない。いくらこの辺りが清浄だからといって、片時でもあなたのそばを離れるべきではなか……」
「敦盛さん――!」
敦盛が言い終わる前に、は彼の胸に飛び込んでいた。ぬくもりを通して、彼の存在を確かめようとでもするように。
夢でもいい。幻でもいい、かまわない。
ただ、彼がそこにいるのならば、それでよかった。