時が、止まった。
「神子、……今……なんて……?」
敦盛が、目を大きく見開いてを凝視する。彼女がたった今口にした言葉に息を呑み、そのまま二の句を継げないでいた。その間も、は敦盛から片時も目を離さなかった。
「……先生が、言ってました。敦盛さんが怨霊として存在しているのは、なにか意味があるからだって」
「それは、私があなたの八葉として選ばれたからで……」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。世界の与える意味なんて、わたしには、わからない。わかるのは――」
そっと、瞳を閉じる。
知ってしまった。今まで知らずにいたことを、知ってしまったのだ。禁断の果実を手に取ったアダムとイヴのように。
あなたという存在を、知ってしまった。
それだけが、すべて。
もう、戻れない。あなたを知らなかったころには、還れない。
「あなたのいない世界を、もう、思い描けなくなってしまったことだけ――」
「……っ」
再び目を開けようとした瞬間、は敦盛に強く抱きすくめられた。
「敦盛さ……くるしいよ」
「あなたはっ……」
泣きたくなるほど切ない声。慟哭。そして。
「あなたは、いとも簡単に私の心の堰を決壊させる。私がどれほど耐えていても、あっさりと打ち砕く――」
「敦盛さん……?」
「私の存在は、ひどく不確かなものだ。いつ、この世から消えるともしれない。だから、できるだけこの世に未練を残さないようにと努めるつもりだった。わずかな間でもいい、あなたのそばにいられればそれでいいと思っていた。それなのに――」
あなたのもとを離れるのをこんなにも恐れている、と、消え入るような声で敦盛はつぶやいた。
「あなたの言葉は、私が怨霊であることを忘れさせる。私に、甘い夢を見せる。あなたとなにげない日々を過ごす、幸せな夢を」
「……夢で、終わらせないでください」
そういって微笑むと、はそっと敦盛の背に手をはせた。
「福の鈴にかけた願い。奇跡が起こるのをただただ待つんじゃなくて……叶えましょう、二人で」
「神子……だが、私は」
確かに、怨霊である敦盛の未来(あす)は必ずしも約束されたものではない。次の日に目覚めたときに、もう自分のそばにはいないかもしれない。
しかし確かな未来など、誰にも約束されてはいないはずだ。現には今、ここにいる。遙かなる時空を超え、その先で出逢ったひとをこれほど深く愛するなど、誰が想像しただろうか。
――涙よりは、笑顔を。
このひとと過ごす時間を、精一杯、大切にしたい。
たとえ限られたものであっても、永遠にも勝る輝かしいものであったと誇れるように。
『逃げちゃいけない。あきらめちゃ、いけない』
朔にいったことば。今度は、そのことばを自分自身に向ける番だった。
昨日よりは今日を、今日よりは明日を。
旅がはじまるのだ。二人の願いを叶えるための旅が。幸せを探す、旅が。
自分を包み込む敦盛のぬくもりに、の涙腺が緩んだ。
護ってみせる。このひとを。どんな過酷な運命にも、立ち向かってみせる。
「言ったでしょう?あなたを、幸せにするって」
敦盛の腕に、力がこもる。
それ以上、言葉はいらなかった。
二人の鼓動だけが静かに、静かに折り重なってゆく――。
「………………」
寄せては返す小波にまぎれて、敦盛の声がきこえたような気がした。
ゆるゆると、夜が明ける。
太陽が、厳島の海を黄金色に染め上げる。
「敦盛さん」
はかたわらに立つ敦盛に手を差し伸べた。
「帰ろう?きっとみんな、待ってる」
はにかみながら、敦盛は彼女の手に自分のそれを重ねた。
「ああ。――帰ろう、神子」
長い長い夜が終わる。
そして新しい朝が、また、はじまる。