敦盛の胸に身体を預けると、は安堵のため息をついた。ずっと張り詰めていた気が急激に緩んだせいか、涙が堰を切ったようにあふれた。
「神子?どこか、痛むのか?」
状況を飲み込めていない敦盛は、突然泣き出したを前に慌てふためいた。
「敦盛さ……っ、いなく、なっちゃ……かと、……っ」
「神子」
最初はわずかにためらうように、やがて、意を決したように。
は、自分を受け止めてくれた腕にわずかに力が加えられたのを感じた。まるで壊れものを扱うかのように、泣きじゃくる彼女をそっと優しく抱きしめる。それだけで、心がすうっと落ち着きを取り戻していく。
「だいじょうぶだ、神子。私はここにいる」
「………」
とくん、と、敦盛の心臓が震える音を聞いた。触れた肌から、暖かいぬくもりが伝わってくる。
敦盛が、いる。今、ここに、いる……。
その存在を確かに感じているはずなのに、それなのに、不安は消えない。
「……ごめんなさい。わたしったら、取り乱してしまって」
かすれた声を、辛うじて搾り出す。
「ほら、もう夜も遅いでしょう?気がついたら、敦盛さんの姿がなくて、……不安に、なってしまいました」
当たり障りのない言葉を述べて、その場をやり過ごす。
――いなくなってしまったのかもしれない。消えて、しまったのかもしれない。
そんな不安を、本人を前にして口に出せるはずもない。
再会を果たしてから、ずっと恐れていた。
白龍の力を解放したことにより、平家に生み出された怨霊はすべて浄化された。
敦盛は、怨霊。死して、再び生を与えられたもの。彼の人柄とは関係なく、この事実だけは変わらない。彼がいつまでもヒトとしてこの世に留まっていられる保証は、どこにもない。
怨霊は、浄化されるのを待っている。かつて、敦盛はそう言った。自分自身もまた、救いを求めているのだとも。
では、敦盛は今も浄化を待ち望んでいるのだろうか。地上に、自分のもとに還ってきてもなお、心のどこかで浄化を求めているのだろうか。
漠然とした不安の正体。清盛の遺恨を前にして、静かに湛(たた)えたあの笑み。
もう、思い残すことはないと。そう告げて、いつか自分の前から消えてしまうのではないか。あの、満ち足りた微笑だけを残して。
それが敦盛の願いであるのならば、仕方がないことなのかもしれない。そうも、思う。
それが、敦盛さんの、願いなら。
……敦盛さんの、願いは……?
敦盛はの背中を優しく撫ぜると、静かに言葉を紡いだ。
「すまない……私は八葉失格だ。あなたに、こんなにも心細い思いをさせてしまった」
「ううん、違う。敦盛さん、違いますよ」
敦盛の声が、を再び現実へと引き戻す。
「だって、来てくれた。敦盛さん、名前を呼んだら、来てくれた……ありがとう。それから、人騒がせで本当にごめんなさい」
そう言ってぺこり、と勢いよく頭を下げた際に、ちりん、と土鈴が乾いた音を立てた。
「………」
願いを叶える福の鈴。敦盛は、この鈴にどんな願いをかけたのだろう。
ひた、と敦盛の双眸を見据える。
紫がかった、不思議な眼。一筋の憂いが見え隠れする、穏やかな眼。
――この瞳の奥に眠る想いを、願いを……知りたい。
ふっと湧いた衝動に突き動かされ、は敦盛に尋ねた。
「……敦盛さん。福の鈴のこと、覚えていますか?」
「鈴?屋島の出店で買った鈴のことか?」
突然切り出された質問に途惑いながらも、敦盛は丁重に答えを返した。
「はい。あの鈴にどんなお願いをしたのか、訊いてもいいですか」
「願い、か……」
一瞬頬を赤らめ、しばらく逡巡したのちに、敦盛は口を開いた。
「あのときも今も、変わっていない。……神子が、幸せであるように、と」
「……わたしのお願いも、あのときのままです。敦盛さんが、幸せになりますように、って」
初めて鈴を手にしたとき、お互いが述べたささやかな願い。
敦盛は、優しい。彼が口にした望みは、彼の優しさの表れなのかもしれないと思っていた。
あの夜――敦盛の兄・経正をこの手で封印した、あの夜。彼の哀しみは、計り知れないものであったはずなのに。それなのに、彼はたったひとりの兄を黄泉へと送った当人であるの身を、案じていた。
敦盛を信じていなかったわけではない。ただ、なんでもひとりで背負い込もうとするひとだから、心のうちに「本当の願い」を秘めているかもしれない。そうもまた、感じていた。
「ふふ、……おんなじ、ですね。あの日も、今も、お互いにお互いの幸せを願ってる」
思わず、笑みがこぼれる。
なにひとつ変わっていなかったのだ。自分の想いも、敦盛の想いも。
「……私にあなたの願いを受ける資格はない、神子」
顔をほころばせるとは対照的に、苦渋の表情を浮かべた敦盛が告げた。
「怨霊の身である私に」
「どうして……?」
心が、ざわめく。ちょうど先ほど、敦盛の姿を探し求めていた時分と同じように。
かちりと、の中でなにかが音を立てた。
「どうしてそんなことをいうんですか、敦盛さん」
「私は、この世の理(ことわり)を乱している。本来なら、ここに留まっていてはならない存在だ。……あなたのそばにいられる、それは、すでに私の身には過ぎた幸せだ」
「敦盛さん……」
自分の中の冷静な部分が、ああ、と静かに納得していた。
どうして、あれほどまでに不安を覚えたのか。どうして、まだ見ぬいくつもの夜の訪れに怯えていたのか。今まで本能が無意識のうちに捉えていたものを、ここに来てやっと、わかったような気がする。
「そんなこと、いわないで」
ずっとずっと、恐れていたこと。
それは、敦盛がいなくなることでも、消えることでもなく。
敦盛が、生にたいして諦念を示すこと。自分自身の幸せを、拒絶すること。
なにもかもをあきらめた上で、黄泉へと旅立ってしまうこと――。
「許される限り、わたしのそばにいたいと。それ以上は、望まないと。……そう、いいましたね、敦盛さん」
そっと、敦盛の頬に手を添える。
あたたかい。そのあたたかさに、思わず泣きそうになる。
生きているのに。このひとは、今、ここにいるのに。
幸せになってはいけない理由が、どこにあるというのだろう――。
「神子、私は」
「もっともっと、よくばりになって。幸せになるのに、資格も、権利もない。幸せになることは……義務なの」
敦盛に反論する隙を与えず、は続けた。
「わたしもあなたのそばにいたい」
たとえ、それが限られた時間であっても――。
「わたしが、あなたを、幸せにする」